2005年もあと数日に迫っていました。
長い闘病生活の中で入退院を繰り返していたため、工場の整理も思うように出来ないでいました。
私は新年を迎えるにあたり、少しずつ工場の中を片付けたりしていました。
しかし、胆汁のチューブは外れたものの、肝硬変のためか、私の体は少し動かしてもすぐに疲れてしまいます。
そこで、毎日少しずつやることにしました。
大晦日は、いつも子ども達が孫を連れてやって来ます。
今年は長女に女の子、次女にも女の子が生まれ、孫が2人増えました。
それぞれ闘病中に産まれたこの孫たちも、6ヶ月と3ヶ月に成長していました。
私も妻も、成長した孫と会うのが楽しみでした。
今年はいつもと同じように、年越しそばの汁には、皆で採ったキノコを入れて作ります。
そして、年越しそばを食べて、皆でワイワイガヤガヤと話しながら、賑やかな年越しになるだろうと想像すると、胸の高鳴る思いでした。
元旦、ニューイヤー駅伝
2006年(平成18年)、肝臓ガン末期の告知から2回目の元旦を迎える事が出来ました。
元旦早々、いつものように朝早く目を覚ましてしまいましたが、今日はニューイヤー駅伝を観に行くことになっています。
妻が起きてくる頃には、朝食も着替えも済ませ、テレビを観ていました。
『お父さんは、本当に早いねぇ。』と言いながら妻が起きてきました。
しばらくすると、孫も起きてきました。
テレビ画面では、各実業団のランナーが走り始めていました。
朝起きてからの孫の行動を見ていると、娘の話すことに素直にうなずき、返事をする言葉やしぐさがたまらなく可愛くて、朝からメロメロになっていました。
これは、【親バカ】ではなく、【ジジバカ】とでも言うのだろうか。
支度が出来たので、私はおふくろと妻、そして孫を乗せていつものベストポジションへと車を走らせました。沿道には既に大勢の人がつめかけていました。
私は係の人を見つけ、ニューイヤー駅伝の旗をもらって孫に渡しました。
孫は嬉しそうに旗を振って遊んでいました。
空には中継用のヘリコプターが飛び、その音がだんだん近づいて来ます。
やがて、白バイに先導されたトップランナーが見えてきました。
そのとたん、歓声が大きくなりました。
次から次へと、ランナー達が目の前を駆け抜けて行きました。
孫達も私達と一緒に一生懸命に旗を振り、声援を送っていました。
ランナーがひと通り走り去った後、孫達が私に走るマネを見せ、『お兄ちゃんたちね、こうやって行っちゃった。早いねぇ。』としきりに感心していました。
あっという間のニューイヤー駅伝観戦でしたが、このニューイヤー駅伝を沿道で観戦しながら、大きな声援を送るのが我が家の1年の始まりです。
この、何でもないような行事が、どんなに楽しいことか、病気を克服した私の心には、ことのほか響くものがありました。
これからは、孫達の成長を一日で長く見守って行きたい。そして、健康のありがたさを感謝しながら行きていこうと思いました。
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