当時、私の体には【リザーバー】というものが埋め込まれていました。
リザーバーは、肝臓にあった腫瘍に直接抗がん剤を注入するためのもので、太鼓のような形から別名【太鼓・タイコ】とも呼ばれていました。
私のリザーバーは一番最初の入院直後に手術によって埋め込まれていました。
しかし、私の身体は抗がん剤では手に負えない程、癌が進行していて、しかも、リザーバーを埋め込んだ直後に肝臓移植の話しなども出たため、結局一度も使用されることなく、半年以上も身体の中に入ったままの状態でした。
私の2つの希望(理想)を主治医に聞いてみる
そんな私の状況で、当時、私には2つの希望(理想)がありました。
- 胆汁の処置を自分でやらせてもらうこと。
- リザーバーを手術で取ってもうらうこと
体調も安定してきたある日、回診で来た主治医のこの事を聞いてみました。
『先生、胆汁が詰まってしまった時の処置は、教えてもらって自分で行う事は可能ですか?』
『出来ると思いますよ。では今度詰まってしまった時は、処置の方法を教えますね。』
これで1つ目の希望が叶いそうだと思った私はすかさず2つ目の希望についても聞いてみました。
『あともう一つ伺いたいことがあるのですけれど。お腹の中にあるリザーバーの事ですが、私はもう、抗がん剤治療はしないと決めているので、これを手術で取ってもらいたいと思っているのです。』
すると主治医は言いました。
『手術で除去する事はもちろん可能です。しかし、一度取ってしまうと二度と入れる事は出来ません。その事だけは覚えておいて下さいね。それでも良いなら取りますよ。』
私に全く迷いはありませんでした。
『わかりました。それでも構いませんので取って下さい。』
それから数日後、リザーバーを取り除く手術日が来まりました。
私は早速妻にその事を伝えました。妻も同じ考えでした。
除去手術の説明、そして手術当日
私はリザーバーの除去について、たとえもう二度と埋め込むことが不可能になっても全く迷いはありませんでした。
自分なりの代替療法(食事・サプリメント・野菜ジュース等)を実践しながら健康補助食品を信じ抜いて飲んでいた結果、10円玉大の肝臓がんが3つも消えてしまったという事実がある以上、リスクの大きすぎる抗がん剤を受ける気は無く、このまま実践し続けていけばきっと、残りの一番大きな肝臓がんも消えるだろうと信じて疑わなかったからです。
前日に手術の説明
除去手術の前日に主治医から説明がありました。
『手術は足の付け根の動脈を切って行います。もしその時、出血がひどいようであれば輸血が必要になります。』
私も妻もこの説明には大きな不安を抱きました。
しかし、これを乗り越えなければ手術は出来ないと思い、無事に終わることだけを祈って同意書にサインしました。
そして除去手術当日
そして翌日の手術当日。
パジャマから手術着に着替えるとやはり緊張感が襲ってきました。
名前の確認後、奥の手術室へと入りました。
看護師さんの指示で手術台に上がり、いつでも手術が出来る体勢になって主治医が来るのを待ちました。
やり取りに更に不安を感じてしまう
手術台の上で主治医を待っていると外科の先生が入って来ました。
『今日の手術は電気メス使うの?』
『エッ?私には良く分かりません。』
看護師さんは言いました。
私は事前の説明で主治医から手術内容を聞いていたので、『電気メスを使うと言っていました。』とその先生に伝えました。
『そう。どれじゃあ、用意をしておいて。』
今回の手術も局部麻酔だったのでその後の先生たちのやり取りも一部始終聞こえてしまいます。
こんな行き当たりばったりのような手術体制に私は更に不安を感じてしまいました。
何とか無事に手術終了
そして主治医が来ていよいよ手術が始まりました。
『電気メス。』
『はい。』
『笹野さん、これから始めます。』
私には直接見えない位置でしたが、もうひとりの先生が足の付け根あたりを、何かで拭いては捨てる動作をしきりにしているのが分かりました。
私は大きな不安の中で、とにかく手術が無事に終わってくれることだけを願っていました。
そして約1時間半後、手術は終わりました。
私にはとても長く感じましたが、とにかく無事に終わった事でホッとしていました。
2、3日の絶対安静
手術後、2,3日は絶対安静にしなければなりませんでした。
動けないということは本当に苦痛でしかありませんでした。しかもこの時はベッドの上でも仰向けのまま、ほとんど体を動かす事が出来ませんでした。
動脈の傷が塞がるまで、尿は管で排出されていました。
しかしそれも予定通り、2、3日で外す事が出来ました。
たとえ2、3日ぶりとは言え、自由に動ける開放感は口では言い表す事が出来ません。
リザーバーが無事に取れた後は、胆汁のチューブが取れることを願うばかりでした。
ちなみに、この時のリザーバー除去手術の傷跡は今でも残っています。
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